一日を大事にするとは
私は一日の過ごし方が休日と平日で大きく変わりやすい。
その結果として寝る時間が遅くなり、生活のリズムが崩れることもまた多くなっていくものなのだと。
休みの日だからと生活状態が狂えば、それは平日のリズムが崩れ、次の日のやるべきことやりたいことのリズムもまた狂っていく。
以前Twitterで疲れていると休日が何も感じないうちに終わってしまうという記事を読んだことがある。
あんな生活が自分にとっては羨ましく感じる。
そこまで疲れるようなことをした経験がほとんどないのだ。
肉体的にはあったかもしれない、だけど頭脳労働のようなものをして、疲れ果てるという感覚が私にはよくわからないところがある。
一日を全力で生きるという感覚が正直よくわからないのだ。だから夜更かしもできるくらい体力有り余っているのかもしれない。
例えば重い病気に罹ったかのような、そんな逃げようのない強烈な現実を目の前に突き付けられれば変わることもできるかもしれない。
もしかしたら現実逃避をするかもしれないが、それはその時にならないと分からない。
ここで大事なのは、結局自分がどうすればそんな風に意識が変わるのか、自分の事なのに皆目見当がつかないのだ。
ただ今の生活のままでいいなんて甘えた考えは全くもってない、やりたいことはたくさんあるのだから、目の前のことを一つずつ片づけるしかない。
もしくは積み上げるしかないのだろうとも。
じゃあどうすればいいのか
そこで自分なりに考えた、そして思い至ったのは、休日という発想が良くないのではないのかと。
確かに休日は魅力的だ、一日何もしなくても誰に呼び出されることもなく、仕事に行くこともない。
煩わしい人付き合いもなければ、何をやったって自由な時間が一日中(もちろん家事とかの最低限な時間は除く)あるのだと。
そう考えてはいけないのではないだろうか。
私は極端な人間だ、少しでも甘えの余地があれば、そこから堕落へと向かうのは目に見えているし、なんだったら何度も経験している。
よく休日は身体を休めるという考えをみんな持っている、私もそういった風に考えていた、それが間違いではないのかと。
そもそも私は平日だってそこまで疲れてはいない、たかだか数時間のパートタイマーで疲れるわけないのだからそれも当然の話なのだと。
だったら毎日、休日も関係なくやることを必ずこなすようにしていけばいいのではないのだろうかと。
このやるべきことを生活の柱に置けば、それによって生活も変わるのではないのだろうかと。
今日は起きるのが遅かったので、日課としてやることが全てずれてしまった、そして危機感を覚えた。
それこそ、三日坊主になろうとしていたのではないのかと、だから自分抜本的に変える必要性を感じた一日だった。
明日はパートも休日なので、まさに実行に移すにはちょうどいい機会なのだと思う。
頭は使わないと廃れる
勉強をすると頭の回転が速くなっているのが分かる。
それは何か別の事をやっているときでも同じように働くので、以前に小説を書いているときは勉強をした後に書いていたことを思い出した。
運動もウォーミングアップで温めてから行くというが、脳みそもひょっとするとそういう部分があるのではないのだろうかと思うところがあった。
少しだけ気になるのは、やけに記憶力が良くなっていることだった。
この一年は新しい知識のようなものを入れていなかったせいか、脳の中が空っぽのような状態だったのかもしれない。
なんだかんだと自分にいいように動いているような気もする。
これを機のせいにしないように、今度からも頑張っていきたい。
教訓
まず自分を識ること
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